日本の伝統文化は国際的にも年々評価が高まり、エコロジーブームも相まって扇子や着物などの愛好家も増えています。
多くはその成り立ちとともに注目されますが、そうしたアイテムが広まった背景を知っている日本人はそれほど多くありません。
お祭りに欠かせない装束、法被についても同様です。
現代に受け継がれた日本の文化、法被が生まれた背景、その歴史をご紹介しましょう。
日本の身分制度が「法被」から「半纏」を生み出した
明治時代に廃止されるまで、日本にも厳正な身分制度がありました。
最上位に皇族があり、その下に支配階層と平民のすそ野が広がっていたのです。
その垣根が緩やかになったのが江戸時代のこと。長く続く太平の世が町民文化を豊かに成長させ、支配階層が独占していた文化や風習を一般に普及させたのだと考えられます。
「法被(はっぴ)」と「半纏(はんてん)」は混同されがちですが、それもまた江戸時代に武家文化と町民文化が歩み寄った結果です。
もともと武家専用の衣装として生み出された法被は、平民は着用できませんでした。
そのため法被に近い見た目の半纏を新たに作って平民用としたのですが、江戸時代が長く続くうちに「法被」と「半纏」の境目はどんどんあいまいになっていきました。
法被と半纏の違いは?
法被の語源は平安時代の公家装束から来ているという説が有力です。
今で言うところのアウターが「袍(ほう)」で、その下に着用したものこそが「半臀(はっぴ)」でした。
仏教の高僧が背もたれにかける布も「法被」と呼ばれます。
文字の共通点からすると仏教に由来すると考えるべきかもしれませんが、こちらは衣類としての「法被」とは無縁なのではないかと言われています。
法被は羽織に似たつくりをしており、襟の折り返しと胸紐、背中と裾回りには家紋が配置されています。
これに対して半纏は襟の折り返しがありません。
かつては武家以上が着用していれば「法被」。
平民が着用していれば「半纏」として分けていました。
半纏はいつから着用されるようになったのか
法被の普及が進んだのは江戸時代でした。
江戸幕府の財政逼迫は有名ですよね。
当然、武家が贅沢できる情勢ではなく、どんなに見栄を張りたくとも羽織を作れない、そんな家が多かったそうです。
法被は丈が短いので布の消費量が着物よりも少なく、羽織よりも廉価に仕立てられます。
「武士は食わねど高楊枝」を貫こうとした武家にとっては複雑な心持ちになるアイテムだったのかもしれませんが、皮肉なことにこれが武家装束の象徴となりました。
これに対して、半纏については正確な始まりが分かっていません。
法被が普及する以前から職人などの間で「印半纏」として広まっていたという説もあります。
そうなると半纏の方が法被よりも古い歴史を持っているとも考えられますが、もともと平安時代の公家装束が由来だとするならば、 高貴に占有される「法被」の方が先に生まれたことは間違いないのではないでしょうか。
そして、江戸時代の花形とされる火消しが「半纏」をまとったこと、そこから流行が始まったことは確かです。
職人などの限られた平民だけではなく、広く一般に普及した時代についてはやはり江戸時代なのでしょう。
いかがでしたか?
半纏が生まれた歴史的背景をご紹介しました。
現代日本のお祭り風景に見られる半纏は、ほとんどが「印半纏」です。
しかし、中にはきっちり胸紐まで結んだ法被姿も混ざっているかもしれません。
お祭りに出かけた際にはぜひ注目してみてください。